
物価高騰や慢性的な人手不足、さらには金利のある世界への移行など、中小企業を取り巻く経営環境はかつてないほどの不確実性に覆われています。政府が賃金と物価の好循環を掲げ、コストの価格転嫁や大幅な賃上げが叫ばれる中、世間のムードや通念に流されたままの経営では、持続的な成長を描くことは困難な時代を迎えています。
経済・産業界のキーパーソンに次なる一手を聞く「インタビュー2026 飛躍への道標」最終回は、独立行政法人 経済産業研究所(RIETI)の森川正之・特別上席研究員をお迎えしました。一般財団法人 機械振興協会の経済研究所長も務め、日本経済新聞のコラム「エコノミスト360°視点」や、著書「不確実性と日本経済 計測・影響・対応」「生産性 誤解と真実」(いずれも日本経済新聞出版)などで、エビデンス(客観的データ)に基づく冷静な分析を発信し続ける同氏に、最新の調査データを踏まえたこれからの経営戦略をうかがいました。通念にとらわれない価格戦略やAI・ロボット投資、そして企業存続のカギとなる経営の質など、不確実な時代を生き抜くための最適解を探ります。
独立行政法人 経済産業研究所(RIETI)( https://www.rieti.go.jp/ )
2001年に設立された政策シンクタンクです。理論的・実証的な研究と政策現場とのシナジー効果を発揮し、エビデンスに基づく政策提言(EBPM)を行うことをミッションとしています。国内外の第一級の研究者が中長期的な視点から世界的水準の調査分析や政策研究を実施。その成果は研究論文やシンポジウムなどを通じて広く発信され、日本の経済システム改革や新たな政策の導入に役立つ理論的基礎を提供しています。
一般財団法人 機械振興協会 経済研究所( http://www.jspmi.or.jp/eri/ )
1964年に設立された機械振興協会内の調査研究機関です。約60年にわたり日本の機械産業の発展に貢献する取り組みを続けており、近年はAIやサービスロボット(配送や清掃、接客、介護など、製造現場以外で活用されるロボット)の活用、脱炭素化、中小企業の経営革新といった現代の諸課題についても調査研究を展開しています。また、同協会が運営する機械産業の専門図書館「BICライブラリ」を通じて、ビジネス支援のための各種情報提供サービスも行っています。
――2024年から25年にかけての春闘では高水準の賃上げが実現しました。足元では実質賃金がプラスに転じる月も出てきましたが、マクロ経済の視点から見て、賃金と物価の好循環は実現しつつあると評価できますか。
ある程度は実現していると言えるでしょう。今年1月分の毎月勤労統計では、現金給与総額ベースでの実質賃金がプラスになりました。ただ、見かけ上の賃上げ幅に比べると、物価上昇分を差し引いた実質的な伸びはまだ非常に小さく、好循環と呼べるほど力強いものではないというのが正直な印象です。
一方で、注意すべき点もあります。毎月勤労統計で注目されがちなのは給与総額ですが、労働経済学の観点からは、賃金は時間あたりで考えるのが基本です。近年、働き方改革などで労働時間は減少傾向にあるため、時間あたりで見れば、実はもう少し早くから実質賃金はプラスになっていました。労働時間の短縮も込みで実質賃金を評価する必要があります。
しかし、実質賃金の動向を左右する足元の物価については、イラン情勢に伴う原油価格高騰など地政学的な要因による上昇懸念があり、先行きは予断を許しません。 そもそも、政府は「賃金と物価が両方とも上がる状態」を好循環と呼んでいますが、それが「賃金も物価も上がらない状態」に比べて本当に良いことなのかどうか、経済全体の生産性向上や経済成長にプラスに働くかどうかは必ずしもはっきりしておらず、私自身は「好循環」という言葉を安易に強調したくはありません。

または一般財団法人 機械振興協会 経済研究所( http://www.jspmi.or.jp/eri/ )のウェブサイトに掲載されている森川氏の研究論文・資料等です
生産性を高める3つのエンジン
――先生の研究によると、マクロ経済全体では生産性と実質賃金が乖離(デカップリング)しているものの、ミクロの企業レベルでは、生産性を高めた企業がしっかりと賃上げできているようです。中小企業が持続的な賃上げを実現するためのポイントは、どこにあるのでしょうか。

一番の基本は、やはり生産性を上げられるかどうかです。生産性を高めるエンジンとして重要なのは次の3点です。
1つ目は、新しい製品やサービスを生み出すイノベーション。2つ目は、教育訓練への投資などによって労働力の質(人的資本)を高めること。そして3つ目は、生産性の高い企業がシェアを伸ばして生き残り、生産性の低い企業が退出するという市場の新陳代謝です。 この新陳代謝が働くことで、結果的に賃金の高い企業の割合が増え、中小企業全体としての平均賃金が底上げされていく。これらが持続的な賃上げの主なメカニズムになります。
コストの100%転嫁は必ずしも最適解ではない
――賃上げの原資を確保するためには価格転嫁が不可欠です。政府もガイドライン整備などを通じて取引適正化を推進していますが、この促進策は機能していると評価されていますか。
実証的なデータとして、価格転嫁の進展のうち、どの程度が政策の効果によるものかを厳密に切り分けることは困難です。しかし、価格転嫁ができている企業ほど賃金を引き上げる方針をとっていることはデータから確認できており、転嫁できる環境づくりが重要であることは間違いありません。中小企業から見て、売り先が大企業(買手独占力を持っている状態)である場合、価格が低く抑えられがちです。そうした取引関係においては、取引適正化の政策は経済学的にも根拠があり、一定の効果を持っていると考えるのが自然でしょう。(価格転嫁に関する政策は)「やらないよりはやった方がいい」政策ではあると思います。
――先生の研究では「コストを100%価格転嫁することが、企業にとって必ずしも最適な行動とは言えない」とも指摘されています。中小企業は価格転嫁と販売数量のバランスをどう経営戦略に落とし込むべきでしょうか。
それは、売っている製品やサービスによって大きく異なります。経済学では「価格弾力性」と呼びますが、少し価格を上げただけで需要が激減してしまうような製品(価格弾力性が大きい製品)を扱っている場合、無理に100%転嫁をすると販売数量の減少によるマイナスが大きく、利益を損ないます。競合企業が多い製品やサービスであれば、値上げの影響はより顕著になります。
逆に、価格を上げても需要があまり変化しない(価格に対して非弾力的な)製品であれば、転嫁率を高く設定するのが合理的です。 もう一つ重要な視点があります。政府の価格転嫁促進策は、主に企業間取引(BtoB)を対象にしていますが、賃金を上げるためには最終消費者(BtoC)への価格転嫁も不可欠です。原価が上がっているにもかかわらず、消費者向けには価格を据え置こうという力が働くと、賃金と物価が連動して上がっていくメカニズム自体を阻害してしまいます。国際情勢などの外部要因で上がってしまったコストは、消費者向けにもある程度転嫁していくことが、経済全体にとって妥当な動きだと考えます。
価格弾力性
値段を変えたときに、お客さんがどれだけ動くかを表す反応の強さのことです。価格弾力性が高い商品は、値上げするとお客さんがすぐに離れてしまうため、売上が大きく落ちやすいのが特徴です。嗜好品や、競合が多い商品がこれに当たります。 一方で、価格弾力性が低い商品は、値上げしてもお客さんがあまり離れないため、販売数量は大きく減りません。生活必需品やガソリンなどが代表例です。
金利上昇と「ゼロゼロ融資」後の企業退出は、正常化へのプロセス
――金融政策の転換により金利のある世界へと移行しています。金利上昇は、中小企業の設備投資や企業退出にどのような変化をもたらしているでしょうか。
一般論として、金利のある世界への移行は、企業が資本コストを意識して経営せざるを得なくなることを意味します。結果として投資効率が高まったり(=質の高い投資が厳選されること)、借入の返済ができない企業が退出したりするという新陳代謝が起きるため、日本経済の生産性向上にはプラスに働きます。
ただし、企業にとって実質的な負担となるのは名目金利ではなく、物価上昇率を差し引いた実質金利です。例えば、金利2%で借り入れても、その間にモノの値段が2%上がっていれば、実質的な負担はゼロ金利で物価変動がない時と同じです。現在は物価上昇率が高くなっているため、見かけ上の金利が上がっていても、実質金利はさして上がっていないというのが現実です。
――コロナ禍で導入された「ゼロゼロ融資」の返済が本格化し、苦境に立たされる企業も増えています。
ゼロゼロ融資(実質無利子・無担保融資)は、コロナ危機という想定外のショック時に企業の倒産を抑制する効果を確かに持ちました。しかし、私が行った事後評価の分析では、資金繰り支援を受けた企業は、その後も生産性や賃金が上がっておらず、むしろ下がっている傾向が確認されています。過度に寛大な支援策であったため、本来であれば退出するはずだった効率性の低い企業を生きながらえさせた(=新陳代謝を遅らせた)という面は否めません。その影響がここに来て顕在化し、融資を受けた企業の倒産が増えていると解釈できます。健全な企業を救う代償として非効率な企業も残ってしまった状態から、金利のある正常な世界へと移行していくプロセスにあると言えます。

現場を救うロボットと、投資リスクの見極め
――人手不足やコスト高の中で、企業は限られた資源を何に投資すべきか選択を迫られています。投資の種類によって成果の出方に違いはありますか。
前提として、どのような投資が良いかは企業が持つ経営資源や市場環境によるため、一概には言えません。その上で、私の研究データから言えるのは、設備投資などの有形資産よりも、研究開発や人的資本投資といった無形資産投資のほうが、投資収益率が高い傾向にあるということです。これは多くの企業に共通して言えることです。
また、深刻な労働力不足の中では省力化投資が極めて重要になります。近年は生成AIなどが注目されており、私の調査でも、仕事でAIを利用することでホワイトカラーの業務効率性が平均して数%高まっているという結果が出ています。
しかし、人手不足が最も深刻なのは、物流、建設、介護といったサービスセクターの現場です。こうした現場の業務をAIだけで効率化するのは難しいため、私はサービスロボットの活用に注目しています。物流倉庫でのロボット活用や、介護現場でのモニター機能を持つロボットなど、労働力不足が深刻な現場でこれらをいかに導入していくかが、今後の企業の生き残りを左右するでしょう。

――先行きが見通しにくい不確実性が高い環境下では、企業は投資を様子見する傾向があると思います。様子見すべきか、投資に踏み切るべきかの見極めは、どう考えればよいのでしょうか。
不確実性が収まるまで様子を見るというのは、経済学的に合理的な行動です。しかし逆に、「不確実性が高い時こそ、あえてリスクをとるべきだ」という理論(成長オプション効果)もあります。投資に失敗した場合の損失(マイナス)は有限ですが、成功した時の見返り(プラス)は無限大になり得ます。 例えば資源開発のように、いくつも探査を行って1つでも大きく当たれば大儲けできるようなタイプの投資は、不確実性が高くても企業は実行します。自分がやろうとしている投資が、当たった時のリターンが極めて大きい性質のものなのか、それとも普通の投資で少し様子を見てから判断したほうが良いものなのか、事業や投資の中身の性質を冷静に判断することが求められます。
不確実な時代を生き抜く経営の質とデータ活用
――企業規模のほかに、企業の競争力や持続的な収益力を左右している構造的な要素は何だとお考えですか。
現実の世界で一番大きい要素は「運」だと思いますが(笑)、研究レベルのデータから明確に言えるのは経営の質が企業のパフォーマンスや存続に強く相関しているということです。大企業と違い、中小企業における経営の質とは、ずばり経営者自身の質です。従業員のモチベーションを高めるインセンティブ設計や、適切な目標設定ができるかどうかです。
例えば成果報酬にしても、個人のパフォーマンスだけを評価すると、組織内での協力が阻害されがちです。個人ではなく、チームのパフォーマンスに対して報いるようなインセンティブ設計が、日本の企業には合っていると思います。
また、製造業においては多角化も一つのキーワードです。かつてのバブル期のように、本業と全く無関係な不動産投資などに手を出す多角化は企業価値を下げますが、本業に近い領域でポートフォリオを広げることは意味があります。単にモノを売るだけでなく、関連するアフターサービスやメンテナンスなどに事業を広げていく「製造業X」的な戦略をとる企業が増えています。これが直ちに利益率の向上に直結しているとデータではっきり断言できる段階にはありませんが、生き残りのための有効な戦略の選択肢として、こうした動きはさらに広がっていくでしょう。
製造業X
単なるモノづくりにとどまらず、DXやアフターサービス、先端技術などを組み合わせて他にはない新しい価値を生み出す製造業の取り組みです。こうした価値創出を通じて企業の稼ぐ力を高める新しい製造業の姿として、経済産業省が提唱しています。
――最後に、中小企業の経営者が経営判断を行う上で、どのような情報やデータに注目すべきかアドバイスをお願いします。
調査データから分かっているのは、自社の売上見通しや、日本の経済成長率の予測を正確にできている企業ほど、事後的な利益や売上実績が良いという事実です。日々のニュースだけでなく、GDP統計や日銀の物価統計、日銀短観、あるいは鉱工業生産指数といったマクロの客観的なデータに定期的に目を通し、今、世の中で何が起きているのか、どういう製品が伸びているのかを把握する習慣をつけることは非常に意味があります。
その際、政府が発表する経済見通しには、どうしても楽観的なバイアス(上方バイアス)がかかる傾向がある点には注意が必要です。政府の見通しを鵜呑みにしすぎず、客観的な実績を示す統計データ(エビデンス)に基づいて冷静に環境を分析し、経営判断を下していくことが重要だと思います。

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